土佐史研究家 広谷喜十郎

248三十三間堂と土佐-高知市広報「あかるいまち」2004年12月号より-


 先ごろ、京都にある蓮華王院・三十三間堂(国宝)を訪ねた。吉川英治著『宮本武蔵』の中で、武蔵が吉岡一門を相手に、この広縁を舞台に戦う場面が設定されていることでも有名である。

                                                                 ●雪蹊寺にある湛慶作の仏像(左から吉祥天、善賦師童子、毘沙門天)雪蹊寺にある湛慶作の仏像(左から吉祥天、善賦師童子、毘沙門天)
 長いお堂は約百二十メートルもある。この西外側の広縁の南端に座って、北端までを強弓で、夕刻から翌日までの一昼夜に何本射通せるかの「通し矢」が有名である。

 貞享三年(一六八六年)、紀州藩の和佐大八郎は、矢数一万三千五十三本(一時間に五百四十四本、一分間に九本)、通し矢は八千百三十三本という、成功率が六割にもなる大記録を残している。

 また、平尾道雄著『土佐武道史話』には、山内家の家臣・加用喜右衛門が寛文六年(一六六六年)六月十三日に三十三間堂で通し矢を行い、「総矢五千二百八十九筋、通り矢九百二十九筋にて御座候」(長井三郎兵衛の報告書)とある。続けて、六月の炎天下で季節的に条件が悪く、何人かいた挑戦者すべてが途中で脱落し、「喜右衛門達者なる射手にて先々たのもしき儀」と評判になった。当日は大変なにぎわいの中で行われ、喜右衛門も名誉のことであったろうとも追記されている。

 三十三間堂の堂内に目をやると、十一面千手観世音菩薩像が千一体ずらりと並んでいるさまに圧倒されてしまう。その中心に座している中尊(国宝)は、仏師・湛慶(運慶の長男)八十二歳の時の造像で、鎌倉期(建長六年)の名作と評価されるものである。堂内には湛慶銘のあるものが九体もあるという。

 十一面観音像の前列と中尊の四方に位置する、多くがインドに起源を持つ変化に富んだ二十八部衆像(国宝)は、その神話的な姿が迫真的に表現されているもので、湛慶風の見事なものばかりである。また、雷神像と風神像は鎌倉彫刻の名品として知られる。

 運慶一派といえば、奈良東大寺の仁王像があまりにも有名であるが、湛慶作の立派な仏像は、高知市長浜の雪蹊寺にもある。毘沙門天、吉祥天、善賦師童子の三点(いずれも国の重要文化財)は湛慶作との墨書銘があり、五十歳代の円熟期の作品といわれている。

 中でも、童子像の何とも言いようのない愛らしい顔つきは、見る者の心を和ませる。

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