土佐史研究家 広谷喜十郎

247徳増屋と青茶の出現-高知市広報「あかるいまち」2004年11月号より-


 土佐はお茶国である。

                                                                        ●「旧本丁筋」を示す旧町名案内標識(上町二丁目)。徳増屋がいた
                                                                                                          この辺りは職人の街でもあった
「旧本丁筋」を示す旧町名案内標識(上町二丁目)。徳増屋がいたこの辺りは職人の街でもあった
 江戸時代後期、土佐の山間で生産された茶は、四国山地を越えて瀬戸内方面だけではなく、中国地方や九州方面にまで移出されていた。土佐茶は「誠無量の名産也」(『南路志』)といわれるように、土佐を代表する産物の一つとして高い評価を受けていた。中でも韮生郷の大抜茶、豊永郷・本川郷の碁石茶、津野山郷の六蔵茶は、三大銘茶として有名であった。

 『佐川郷産物往来』を見ると、「別枝(仁淀村)の青茶、高瀬(同村)の煎茶」とあり、『土佐名物庭訓』では、三大銘茶と並んで、「樅山(吾北村)の青茶」が記載されている。

 土佐の青茶については『土佐事物史』に「山城及丹波ヨリ職工数十人ヲ雇入レ且ツ製造器械ヲ購入シテ各郡ノ産地ニ遣リ(略)年ヲ逐フテ青製次第ニ増加シ、明治六、七年ノ頃ニ至ル迄ハ産額大ニ増加」(『茶沿革』)とある。文政年間(一八一八〜一八二九年)、本丁筋の商人徳増屋源七郎が山城国(京都府)や丹波(兵庫県)から製茶器械を購入して、青製すなわち青茶の生産を開始し、旧来の黒茶系の土佐茶から、青茶へ改良、移行したというのである。

 また、青製とは、林屋辰三郎『茶書の歴史』によると、山城国の永谷宗円(永谷園の祖)が元文三年(一七三八年)「ながい苦心の結果、茶葉を釜の代わりに蒸甑にして蒸し、揉捻して乾燥させることを発案し、さらに茶の葉も、硬い芽や老葉をとりのぞいて新しい芳芽をえらんだので、色沢緑美・香気馥郁とした『青製』という煎茶を生み出すことができた」ということであり、現代の緑茶の元祖というものである。

 この青茶の出現は、日本の茶業の歴史を一変させる画期的なものであった。

 しかし、このころ京都では、抹茶が中心で、新しい青茶が普及する余地がなかった。そこで、江戸の茶商・山本嘉兵衛(山本山の祖)に持ち込んだところ、評判になり、江戸で大いに売り上げを上げたということである。

 その後、一八一〇年ころから全国的に普及し始めたということであるから、土佐で最初に目を付けた徳増屋源七郎は、先見性を持った人物であったといえるであろう。

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