土佐史研究家 広谷喜十郎

245鮎漁と鮎屋の登場-高知市広報「あかるいまち」2004年9月号より-


 川魚の王者といわれる鮎は、江戸時代の藩主や武家に珍重された。そこで、土佐藩は「御用鮎」の制度を設けた。主要河川の川筋の庄屋の責任で鮎の買い上げ量を確保して、規格寸法以上のものは勝手に売却させなかった。それ以外の鮎についても、勝手な取引は許さず、各村へ出向いた仲買人が買い取り、魚市場へ出荷していた。

                                                                                   ●得月樓所蔵の掛け軸に、鮎屋の主人が、鮎
                                                                                                                            を入れた籠を天秤棒で担いで城へ向かう姿が
                                                                                                                            描かれている
得月樓所蔵の掛け軸に、鮎屋の主人が、鮎を入れた籠を天秤棒で担いで城へ向かう姿が描かれている
 岡本真古著『事物終始』には、鏡川で文政年間(一八一八〜一八二九年)から始まった鮎の掛け釣りにより庇ものの鮎が増え、御用鮎が少なくなっため、幕末にはこの漁法は禁止されたとある。

 また、鮎の毛針による漁法も盛んになり、「土佐釣針」は加賀国と並ぶ毛針の二大源流となっている。高知城下菜園場には、「丹吉釣針」で著名な老舗廣瀬丹吉商店が現存している。この店は、天明元年(一七八一年)に初代丹吉が、釣針や漁具の製造を本格的に始めて店を構えたという。

 上町二丁目にある伊與木漁網店には、寛政十一年(一七九九年)に、追手・黒鉄御門から高知城への日中出入りが許可されたことを示す木札が今も残されているという。網漁でも川漁が盛んになってきたことがうかがわれる。十八世紀末から十九世紀初頭にかけての川漁の飛躍的な発展が想像できる。

 高知城下には、魚類小売りが許可された「魚の棚」という場所がいくつかあった。上町には、本町通りから南の水通町通りを抜けた通町通りに至る路地にあって、多い時には十数軒が店を構えていた。

 寺石正路著『松岡寅八伝』によると、松岡家は、「数代前より魚の棚に住し、魚商を営み、年々幡多の四万十川や伊野の仁淀川から鮎を買下し生魚或は乾干にて、御城の御奥に納める御用を仰付けられ」とあり、鮎の取引を行う専門店であった。この店は、御用鮎を扱う御用商人として鮎屋と呼ばれていて、「山内家より鮎屋の号を許されたものである。父久平は日々この御用を奉じ魚類を城中へ担ひ運びた」。

 この店を相続して活躍した松岡寅八は、後の陽暉樓・得月樓という一流料亭を持つまでに発展していった。

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