土佐史研究家 広谷喜十郎

244沈下橋第一号-高知市広報「あかるいまち」2004年8月号より-


 かつて柳原にあった鏡川の沈下橋は、日本の沈下橋の元祖ともいうべきものであると、何かで読み承知していた。しかし、詳細が分からないまま気になっていたが、小説『沈下橋』や、『四万十川・赤鉄橋の町』の著者である金井明氏に出会い、ご教示をいただく機会に恵まれた。

                                                                 ●鏡川に架けられていた沈下橋の撤去工事の様子(昭和52年7月12日 金井明氏撮影)鏡川に架けられていた沈下橋の撤去工事の様子(昭和52年7月12日 金井明氏撮影)
 金井氏によると、この橋を実現させた功労者は、当時の高知市土木課長の清水真澄と、発案者である同市の土木技師・吉岡吾一であったという。

 吉岡は、中国・西湖の石橋が、揚子江の出水で時々水没するものの、問題が起こらないことに着目し、沈下橋の可能性を提案した。高知市にとっても、財政事情困難の折でもあり、経済的負担の軽い橋つくりは魅力であった。吉岡の技術力を信頼していた清水は、なんとか実現させたいと努力した。

 当初、県の土木技術者たちは、「洪水時の大量の水が橋によって影響され、上流左岸の築屋敷の住宅を危険にさらす」と言って相手にしなかった。清水は、当時本省であった内務省にも出掛け、出願する。「洪水に沈む橋」と一笑に付されてしまう。それでも清水は、何十回と陳情をくり返し説得した。清水の誠意と、熱意ある説得により、本省の係官も橋の建設をやっと認めた。

 昭和二年六月一日、「竣工渡橋式」を行うこととなる。そして、土砂降りの雨の中、清水と同行した若い技師は、「やはり、危ぐしたようなことは起らなかったですねえ(略)水流が床板に当たり始めるころ、五十センチくらい水面が膨らむ程度です。それも完全に水没して、一メートルから二メートルも橋の上に超しだすと全く影響はなくなります」と、述懐している。

 昭和二十年七月の戦争末期に、B29の爆撃を受け市内が火の海となった時、この沈下橋を渡って筆山方向へ逃げた市民も多かった。金井氏は、「命の橋」であったと指摘されている。

 交通事情の変化した今、その橋はない。沈下橋に関する資料収集とともに、日本における第一号であったことを示す記念碑を、どこかに建てておきたいものである。

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