土佐史研究家 広谷喜十郎

243北村 久寿雄-高知市広報「あかるいまち」2004年7月号より-


 アテネオリンピックが近づいてきた。オリンピックと言えば、昭和七年、アメリカ・ロサンゼルスでの第十回大会で、十五歳の北村久寿雄が世界の強豪を抑え、千五百メートルの水泳競技で優勝したことが語り継がれている。他の水泳競技でも、日本選手の活躍は目覚ましく、水泳競技だけで十二本の日章旗が揚がるという圧倒的な勝利であった。
   
                                                                 ●市営体育館入り口に陳列された故北村久寿雄氏の記録と足跡市営体育館入り口に陳列された故北村久寿雄氏の記録と足跡
 弱冠十五歳の少年が優勝するとは信じ難かったので、世界中の新聞が大々的にその活躍ぶりを報道し、日本国内では号外が出された。県内でももちろん大騒ぎとなり、数多くの高知市民が菜園場にあった北村家までちょうちん行列をして祝賀ムードが盛り上がった。

 北村少年が帰高したときには、高知港の桟橋から市街地までパレードがあり、沿道は大勢の人で埋まったという。この優勝を記念して、昭和十一年には高知県で初めての五十メートルの公認プールが建設された。
   
 北村久寿雄が、『高知商業高校八十周年記念誌』に寄せた文に「戦前の高知市で少年時代を過ごした人ならだれでも経験したことです。夏は一日中、鏡川で水遊びをしているうちに、小学校に上がるころには、もう一人前の河童に仕上がっているのです(略)当時ザコ場附近には各学校水泳部が集まって練習していました」とある。

 昭和六年の全国大会に出場し、「既に世界的選手だった見付中学の牧野正蔵さんと競い、散々の敗けを喫した」ので、帰高した翌日から特訓が始まる。鏡川の潮江橋と雑喉場橋間の約五百メートルを何回泳げるかという「橋々何回」という泳ぎを行った。

 この川の、増水した急流に逆らって泳ぐ訓練が実り、オリンピック候補選手となる。それから「冬から春にかけての練習が大変(略)桂浜へ泳ぎに行ったり、鏡川でシビれる寒さを我慢しての練習です」と回顧している。

 水泳部監督の溝渕治助氏は、魚市場の職員で、毎日の練習時間に決して遅れなかったし、練習に厳しい人であった。彼は大正末年から、松山市での水泳大会に数回出場している。バスのない時代で、自転車で夜を徹して会場に行き、片隅で仮眠を取り、競技に参加したというエピソードを持つ人物である。

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