土佐史研究家 広谷喜十郎

241秦地区の史跡(一)-高知市広報「あかるいまち」2004年5月号より-


 秦地区の北部には、標高二、三百メートルの北山の峰が連なっている。北側斜面にある「七ツ淵」は鏡川の水源の一つでもあり、そこに七ツ淵神社が鎮座している。
                                                                 ●秦泉寺廃寺跡から出土した軒丸瓦秦泉寺廃寺跡から出土した軒丸瓦
 この山ろくには、かつて田園が広がり、典型的な農村地帯を形成していた。古代には浦戸湾が入り込み、愛宕山付近には「中津」という港があり、「大津」、「小津」と並んで古浦戸湾の三津の一つであり、山ろくの南側は「津ノ崎」とも呼ばれていた。
   
 戦国大名で、流刑となり久万山のふもとに在住していた毛利勝永は、慶長十九年(一六一四年)の大坂城合戦の折に、愛宕山の津ノ崎辺りから八反帆の回船に乗り、ひそかに大坂に向かって土佐を脱出したという。
   
 六世紀後半から七世紀前半にかけて、小河川流域や丘陵の縁辺部に土地の開発がかなり進んだとみえる。そこを支配した豪族を埋葬した古墳が十カ所余り確認されている。
   
 さらに、七世紀中期になると、高知県では最古の一つと思われる大寺院が建立されている。この寺院発掘調査は、数次にわたり実施され、白鳳時代(六四五〜七一〇年)の軒丸瓦が出土している。これが「秦泉寺廃寺跡」と呼ばれるものである。今のところ寺院名は確認されていないが、「秦泉寺」という大寺があり、これが地域名になった可能性が高い。この時期に、この地域の歴史的基盤が出来上がったといえる。
   
 「秦泉寺」ゆかりの泉については諸説があるが、高知市の三名泉の一つと考えられる「秦の泉」が、秦山の南すそにある。

 『阿波国徴古雑抄』に収録されている、乾元二年(一三〇三年)の『那賀郡木頭村伊瀬権現夢想旧記』に「土州秦泉寺」と出てくる。これが「秦泉寺」という地名を最初に紹介した文献とされているが、明確に地名として表わされるのは、永禄年代(一五五八〜六九年)の史料や、天正十六年(一五八八年)の『秦泉寺郷地検帳』などになる。

 昭和三十六年、東久万西山で宅地造成中に、埋蔵年代が室町前半期と推定される「常滑製の大甕」が出土した。中に、約七万枚の中国銭が発見されて話題になった。

 埋蔵当時には愛宕山付近まで浦戸湾が入り込んでいたことから、持ち主は、近くに住んでいた海の大豪族であったろうと考えられる。


[トップページへ]


[もくじ]へ戻る

All Rights Reserved. Copyright Kochi-city.