土佐史研究家 広谷喜十郎

238黒岩涙香(くろいわるいこう)-高知市広報「あかるいまち」2004年2月号より-

    
  お正月に「百人一首かるた」を楽しまれた方もあろう。その元である『小倉百人一首』は、数百年もの間人々に親しまれてきた。江戸時代には「歌かるた」に取り入れられ、だんだん庶民層にも広まっていった。     

  明治三十七年、『あゝ無情(レ・ミゼラブル)』や『鉄仮面』などの外国小説の翻訳者である黒岩涙香が中心となってかるた競技のルールを統一し、「競技かるた」が確立された。     
    ●県立文学館の「涙香コーナー」   県立文学館の「涙香コーナー」

  百年目に当たることし、全日本かるた協会では、六月に記念行事を計画している。東京都文京区のシビックセンターで、涙香に関する展示も併せて催される。     

  涙香は文久二年(一八六二年)安芸郡川北村(現在の安芸市)に生まれた。兄の四方之進は札幌農学校第一期生で、あのクラーク博士の教えを受け、内村鑑三や新渡戸稲造と同期であった。  

  涙香少年は、高知城下の森沢塾などで和漢の学問を修め、十七歳の時に大阪の英語学校に入り、翌年、東京で成立学舎や慶応義塾に学んだ。その後、独学ですさまじい勉強をして英語力を付けた。  

  明治十四年から「同盟改進新聞」、「絵入自由新聞」などで主筆を努め論陣を張る一方、「法廷美人」などの翻案探偵小説を書き好評を得ている。  

  同二十五年には「萬朝報」を創刊、「巌窟王」などを翻訳連載し、当時の読書界を圧倒する。また、「目に王侯なく、手に斧鉞あり」の精神で政財界の腐敗を糾弾し、「まむしの周六」と恐れられた。新聞代金は庶民が求めやすい価格にし、趣味と実益を兼ねた家庭欄を設けたり、内村鑑三や幸徳秋水らに格調高い論説を書かせてもいる。  

  同三十五年には理想団を結成し、『天人論』を書き、労働問題や女性問題にも関心を示し『小野小町論』も手掛けている。  

  かるた、囲碁、相撲、野球、撞球、洋楽などの世界にまで手を広げ、庶民の楽しみを文化的に高める努力をした。  

  大正九年十月六日逝去。享年五十九歳。歌人・与謝野晶子は、「君あらで忽ち世人醜しとわれ歎くらくこの頃のこと」と詠進している。  

  高知県立文学館には、「涙香コーナー」があり、涙香の業績をしのぶことができる。  
 

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