土佐史研究家 広谷喜十郎

235 土佐ハシ拳の由来-高知市広報「あかるいまち」2003年10月号より-
  十月一日は日本酒の日である。  
  古代中国では、一年の始まりは冬至で、十番目の月・酉(とり)の月は穀物が収穫されて、新酒が作られる月である。すなわち、古くから酒の月とされていた。  
  日本でも、明治年間に設けられた酒造法では、十月から翌年九月までを酒造年度としている。従って十月一日は「酒造元旦」といえる。  

  「お客(宴会)」のときの「晴れ」の料理が皿鉢料理である。中には「生け作り」といわれる、大鯛(おおだい)を大皿いっぱいに踊らせている刺身もあり、いかにも豪勢な感じがする。宴も半ばになると、座興の一つのハシ拳遊びによって酒宴が盛り上がる。この遊びは、大声を張り上げ、威勢よく、しかもリズミカルな調子で進行する。この遊びを知らない県外人などには、まるで大喧嘩でもしているように映るらしい。  
    ●ハシ拳土俵(三翠園)ハシ拳土俵(三翠園)

  土佐ハシ拳の起源については、正徳四年(一七一四年)五月、九州豊後国(大分県)佐伯の廻船問屋・塩月某が幡多郡宿毛の大黒屋丑松方で滞在している折に、退屈しのぎに碁石で拳遊びをしたのが始まりだとの一説がある。ところが、『宿毛市史』によると、大黒屋丑松は幕末の頃の人で、嘉永二年(一八四九年)のことだとしている。丑松は明治十五年に六十五歳で死去し、城山に墓がある。しかも、四国霊場延光寺に丑松の奉納した立派な常夜燈があり、かなりの財力が証明されている。  
  歴史家・平尾道雄氏は、文久三年(一八六三年)に藩の船奉行の談として土佐の船乗りが薩摩(鹿児島県)から「ケンと申す」ものを習えたという史料があると紹介している。また、民俗学者・桂井和雄氏は「箸拳由来記」(『おらんく話』)のなかで、薩摩の「ナンコ」遊びという薩摩拳に注目し、ハシ拳伝来の経路は九州路、特に薩摩からの無形の贈り物であったらしいと考察している。  
  やがて、明治三十四年に高知市の安兼楼(やすかねろう)でハシ拳の会が二十余人の会員で結成される。同三十八年には会員が九十人ほどになり、大会も催されるようになっている。  

  現在は、高知県酒造組合の主催による「土佐ハシ拳大会」が毎年十月一日に実施されている。

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