土佐史研究家 広谷喜十郎

234 ムラサキ草(ぐさ)について-高知市広報「あかるいまち」2003年9月号より-
  四月下旬、牧野植物園内・薬用樹木園を散策した折、十数本のムラサキ草が白い清楚な花を咲かせているのに出会った。
 この草の根は染料として利用されていた。「託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出でにけり」(『万葉集』巻三)と歌われているし、聖徳太子の冠位十二階制では紫色を最高位にしていたように最も貴重な色彩であった。また、額田王が、近江国蒲生野で「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と詠じ、大海皇子(天武天皇)がそれに返歌されたのも万葉集に収録されている。

 土佐のムラサキ草栽培史を調べながら、奈良の酒の神様・大神神社の近くの「紫は灰さすものぞ海石榴市の八十のちまたに逢へる児や誰」の場所や、春日大社の万葉植物園を訪ねたりした。この植物園には、大掛かりなムラサキ草畑を期待してあちこち探し回って、やっと片隅の一株に出くわした。

 江戸時代初期、土佐藩家老の野中兼山が布告した「国中掟」の中に、北幡や高岡郡津野山郷辺りにムラサキ草が自生しているので、それを増殖させるために藩内の村々にも植生させよ、と命じている。それを染色させる技術は江戸へ職人を派遣して習得させよ、ともしている。
 また、『長宗我部地検帳』をひもとくと、佐川町に「ムラサキエン」という地名が記載されており、現在もその名が残っている。
 享保十三年(一七二八年)五月、江戸幕府の薬園方・植村左平次が全国の薬草調査の途中来国し、薬草改めをした中で、幡多郡十川村のムラサキ草を確認している。ムラサキ草は薬用として皮膚病に効果があるとされていた。文政九年(一八二六年)には土地の人々がムラサキ草の植え付けをしたいとの願書を藩庁へ提出している。かなり広範囲に栽培されていたと思われる。

 このムラサキ草が絶滅危惧植物となり、十和村でも全く幻の草となっていた。それを同村の蕨川正重さんらが平成元年に自生しているのを見つけ出し、苦労の末にやっと栽培に成功している。    ●ムラサキ草(高知県立牧野植物園所蔵)ムラサキ草(高知県立牧野植物園所蔵)


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