土佐史研究家 広谷喜十郎

230 茶の伝来と碁石茶-高知市広報「あかるいまち」2003年7月号より-
 先号で、薬草のなかでも、お茶が王者であることを紹介したが、植物学者の牧野富太郎先生はそのことを十分に承知されていた。牧野文庫には茶に関する古典の中でも、最も注目される『茶経』が収蔵されている。この書物は、上元元年(七六〇年)頃に陸羽(りくう)がまとめたもので、冒頭に「茶者南方之嘉木也(ちゃはなんぽうのかぼくなり)」と記述されている。茶を飲む習慣は、遠く神農の時代の昔から始まり、魯の周公によって世に広められたという。現在でも、樹齢八百年の「茶樹王(ちゃじゅおう)」の大木が中国の山奥に存在しているという。

 日本には、遣唐使が七世紀ごろ中国の団茶(だんちゃ)を持ち帰ったとの説がある。八世紀になると東大寺の「正倉院文書」に、僧侶が茶を求めたとの記録がある。『東大寺要録』に「僧・行基あり(略)諸国に堂社を建立すること四十九ヶ所、並びに茶木を植う」などとあるように、留学僧らが持ち帰った茶を飲む習慣が生まれた。当初は、薬用効果を期待して飲まれたようである。また、空海の『性霊集(巻四)』に「時々、印度の文を学び、茶湯坐し来って」と述べているように、茶の持つ覚醒作用に気付いて飲んでいたらしい。    ●茶経(牧野文庫所蔵)
茶経(牧野文庫所蔵)

さらに、本格的に茶が飲まれるようになったのは、鎌倉時代の栄西がまとめた『喫茶養生記』以後といわれるが、この時期になると、従来の唐風の団茶法ではなく、宋代から始まった新しい抹茶法であった。

高知県の山地には、団茶系の碁石茶という一〇〇%発酵させた不思議な茶がある。これは、その干し固められた形状が黒碁石様になっていることから、その名がある。

かつては、この茶は瀬戸内地方の塩分を含んだ井戸水によく合うといわれていた。特に米の少ない島々で、もっぱら「茶粥」に使われて需要が多かった。江戸時代後期の史料である『南路志』に「中国筋其外嶋々、或九州路ニ至ル迄土佐茶を不用所なし。誠無量の名産也(ちゅうごくすじそのほかのしまじま あるいはきゅうしゅうじにいたるまで とさちゃをもちいらざるところなし まことにむりょうのめいさんなり)」といわれているほど、土佐の山間部で生産された土佐茶や碁石茶が、遠くは九州方面にまで移出されていた。隣国の川之江方面での記録によると、碁石茶の税金が雑税の五割以上を占めている。土佐嶺北から仕入れて今治や尾道方面にまで売りさばいていた。

この茶の製法の起源は東南アジアの奥地にあったと推測されている。今では大豊町でわずかに製造されているだけの「幻の銘茶」になっている。

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