土佐史研究家 広谷喜十郎

230 天誅組事件と土佐-高知市広報「あかるいまち」2003年5月号より-
 このところ、山岳信仰のルーツを求めて、奈良県の葛城山、大峰山、大台ヶ原などを訪ね歩いている。
 これらの山のふもと辺りの思わぬ場所に、幕末の天誅組事件関連の史跡があり、それぞれ記念碑が建立されている。どちらかといえば、天誅組事件によって地元に大きな迷惑を掛けたにもかかわらず、史跡としてきちんと保存されているのは、ありがたいことである。

 昭和六十二年に、奈良県が刊行した『青山四方にめぐれる国・奈良県誕生物語』の冊子がある。第一章の冒頭に「幕末の大和と天誅組の乱」という大項目があり、「このころ、大和の南の玄関口として開けていた五条の町で封建社会を揺るがす大事件が起こった。天誅組の乱という。江戸幕府を武力で倒そうとした幕末最初の反乱として知られている」という書き出しで始まり、いくつかの小項目をあげて事件の経過を簡潔にまとめている。
 ●要法寺(筆山町)にある「大和殉難烈士之碑」
要法寺(筆山町)にある「大和殉難烈士之碑」
 さらに、「残念さん信仰」の囲み記事では「天誅組の指導者であった吉村寅太郎は今の東吉野村で戦死するが、その後、その霊を<残念さん>としてあがめ信仰するという風習がおこった。これは寅太郎が戦死したとき<残念無念>の言葉を残して倒れたという言い伝えがもとになっている」と記述されている。  奈良県の近代の夜明けは、天誅組事件から始まるというのである。

 この事件に参加した土佐人は十七名で、戦死したり、刑死した高知市関係者は、鍋島米之助、森下幾馬、森下儀之助、楠目清馬、土居佐之助、田所謄次郎、沢村幸吉であった。
 鍋島米之助の墓は、吉村ら八人と共に、東吉野村明治谷にある。立派な墓石が建てられていて、近くの宝泉寺がぼだいを弔っている。寺の入り口には「天誅義士記念」と刻まれた大きな石碑がある。
 さらに、湯の谷集落の道路わきには、森下幾馬らの立派な墓がある。兄・儀之助は、逮捕されて京都に送られ、処刑されている。兄弟を一緒に供養してやりたいとの配慮によるものか、儀之助の墓もここにある。
 かつて訪ねた折、墓前にそれぞれ花が手向けられていた。地元の人の思いやりが、今でも続いている。これには、頭の下がる思いをした。



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