土佐史研究家 広谷喜十郎

220トンボ信仰-高知市広報「あかるいまち」2002年6月号より-
 ことしの春、滋賀県野洲(やす)町にある日本一大きな銅鐸が出土した場所にある銅鐸博物館を訪ねた。そこに、全国各地から出土したユニークな銅鐸の紹介コーナーもあって、その中にトンボの絵模様描写されているパネル写真があり一瞬釘付けになってしまった。これは弥生時代の水田耕作にとって欠かすことのできない貴重な益虫(えきちゅう)として刻記されていたものと思われる。

●土佐神社は、本殿を頭とし幣殿を短く、尾に相当する拝の出を長くした十字形で、トンボが飛び込む形に見立てた入トンボ式として有名
土佐神社は、本殿を頭とし幣殿を短く、尾に相当する拝の出を長くした十字形で、トンボが飛び込む形に見立てた入トンボ式として有名
 「日本書紀」の神武天皇の条に、天皇が山上から国のかたちを望見して、「なんと素晴らしい国を得たことだ(略)蜻蛉(あきつ)が交尾しているように、山々が連なり囲んでいる国だ」(宇治谷孟-うじたにつとむ-訳)と言ったので、日本の国を秋津島(あきつしま)と名付けられたと言う。
 それに、「古事記」の雄略天皇の条に、天皇が「腕に虻(あぶ)が取り付き、その虻を蜻蛉がぱっと食い、かようにしてそのことを名で顕(あら)わそうと、この大和の国を蜻蛉島(あきつしま)というのだ」(武田祐吉訳)と詠じた歌を紹介している。いずれにしても、トンボが「アキツ」という地名の起源になる吉祥の霊的昆虫として古代人は表現していたのである。

 忠臣蔵ゆかりの赤穂市にある大石神社の宝物館に、宝永3年(1706)以降、赤穂藩の藩主となった森家の先祖ゆかりの純金で装飾されたトンボの絵模様のある馬の鞍や鐙(あぶみ)があった。これは、武士にとって戦いに勝利するしるしだとされ、トンボを「勝虫(かちむし)」との異名で呼ぶようになったといわれている。なお、戦国時代に武士の間でカツオ節が保存食として利用されるようになると、「勝男武士(かつおぶし)」と呼んで縁起を担いでいる。それに、高知市にある若宮八幡宮の建築様式が戦いの出願祈願にちなんで出(で)トンボ式にしてあり、土佐神社が戦勝報告した神社で入(いり)トンボ式にしてあるのは有名である。

 民俗学者の桂井和雄著『仏トンボ去来』(高知新聞社)によると、オハグロトンボを「カミサマトンボ」と呼んでいる事例が県内各地にあると報告しているし、盆の季節に家の中に飛び込んでくるトンボなどは精霊(しょうりょう)さまだから捕らえてはならないとか、高知市一宮や大津などではオハグロトンボは仏さまの使いだと呼んでいると紹介している。


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