土佐史研究家 広谷喜十郎

219カツオ木のある神社-高知市広報「あかるいまち」2002年5月号より-
 『日本書紀』によると、雄略天皇二十二年の条に丹波国(京都府)瑞江浦の浦島子が紹介されているが、『万葉集』にも「水江の浦島児が堅魚釣り」と出ている。この浦島の子が後のおとぎ話の浦島太郎となり、「海彦、山彦」の伝承とともに、日本における代表的な海洋神話として語り継がれていくのである。

 それに、雄略天皇といえば、ある時、天皇が奈良の生駒山辺りを行幸していたところ、カツオ木を屋根に付けている家屋を見つけて、天皇の御殿の造りと同じだとして、大いに怒ったと『古事記』では伝えている。


●カツオ木とは神社本殿などの棟木の上に横たえ並べた装飾の木。形は円形状でかつお節に似る(重要文化財朝倉神社本殿)
カツオ木とは神社本殿などの棟木の上に横たえ並べた装飾の木。形は円形状でかつお節に似る(重要文化財朝倉神社本殿)
 考古学者森浩一氏は『食の体験文化史』の中で、奈良県橿原市の遺跡から出土した家型埴輪にも丸太を横に載せたようなカツオ木があって、5世紀から6世紀のものが集中して関東や近畿地方からも出土していると指摘している。やがて、神社本殿の屋根の上にもカツオ木が取り付けられ、神社を権威付けるシンボルになっていくのである。

 奈良時代、中央政府によって制定された「賦役令」の中にカツオが「調」の雑物として挙げられ、21歳から60歳までの正丁一人に対して「堅魚(かつお)三十五斤」、「煮堅魚十五斤」、「堅魚煎汁(いろり)四升」となっている。堅魚は生のままさばいて干したもの、煮堅魚はカツオを煮て干したもの、堅魚煎汁は煮汁をあめ状になるまで煮詰めたものとされている。そして、平安時代の『延喜式(えんぎしき)』の土佐国の条に「堅魚八百五十五斤」と記載されている。

   宮下章氏が、『鰹節考』の中で「カツオほど古代人が貴重視したものはない。(略)米食中心の食事が形成されて以来、カツオの煎汁だけが特に選ばれ、大豆製の発酵調味料と肩を並べていた」と述べているように、カツオが古代人にとっては最高の調味料だったといえる。

 『延喜式』によると、煮塩アユ二石、押アユ百隻、煮塩アユ五缶が中央政府に貢納されており、現在の仁淀川から漁獲されたアユを中央政府の贄殿(にえとの)へ貢納していたので贄殿川と呼ばれるようになったといわれる。仁淀川を挟んで東の浦戸湾、西に浦の内湾があり、川や海で生活していた人々が多数いたことを物語っており、そこに「海部郷(あまべごう)」という海洋民が集住している古代村落ができているのである。


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