土佐史研究家 広谷喜十郎

213薬種問屋の成立 -高知市広報「あかるいまち」2001年10月号より-
  江戸時代中期になると、土佐藩でも薬草採集が盛んになったので、宝永6年(1709)に高知城下の種崎町丸亀屋弥三兵衛(やそひょうえ)と高野屋甚兵衛が薬種問屋を設けて「薬草の事をしれるものを郷山分(ごうさんぶん)へ廻し、入銀(にゅうぎん)して蜂蜜(はちみつ)薬品を買い込み売り捌き、また上方へ積せし也」(『事物終始(じぶつしゅうし)』)とあるように、大阪市場にまで薬品類を移出するようになっている。なお、蜂蜜も薬品扱いにされており、『養生訓(ようじょうくん)』の著者で有名な貝原益軒が宝永6年に『大和本草(やまとほんぞう)』(16巻)を刊行しているが、その中の「蜂蜜」の条に「伊勢、紀州熊野、尾張、土佐其外諸国ヨリ出、土佐ヨリ出ルヲ好品(こうひん)トス」とあって、土佐ものが最高級品であると褒めたたえている。

                                    ●牧野植物園の薬草展示コーナー
牧野植物園の薬草展示コーナー 薬種問屋が設けられた宝永年代にまとめられた『土佐州郡志』は、藩内を村別に調査してまとめた地誌で、村によっては特産物が記載されている。その中に薬草類が数多く出てくるが、これは藩当局が薬草類を意識的に調査して、その産地を掌握しようとしたものである。それに、「薬種類仕成并(しなしならびに)直段(ねだん)之事」(『憲章簿』)によると、76種類もの薬草類を挙げ、採取時期、代金などを決めており、これらの薬草類が全藩的な規模において調査され、藩庁の保護を受ける城下町の薬種問屋が薬種売買を引き受けることになって、この問屋体制の下で藩内各地で積極的に薬種薬草の採集が行われるようになったのである。享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍になると、実学を奨励したので本草学(ほんぞうがく)などが一段と進歩することになった。吉宗は同六年に幕府直営の小石川薬草園を拡張し、その翌年に養生所も設けている。

享保13年に幕府の薬園方(やくえんかた)役人の植村左平次が全国の薬草調査のため江戸を出発し、やがて四国へも来て土佐の甲浦、横倉山、伊予の石鎚山、讃岐の象頭山(ぞうずざん)などを歴訪している。そして、『市中家(しちゅういえ)之記』によると、土佐では三十六種類の薬草を調査して公表しているが、高知城下付近では「香じゅ(こうじゅ)朝倉村中山」(ナギナタコウジュを乾燥させたもの・解熱剤など)、「柴故(さいこ)宗安寺長畝(ながうね)」(ミシマサイコを乾燥させたもの・解熱剤など)、「竹葉牛膝(ちくようぎゅうしつ)土佐国(とさのくに)孕山」(イノコズチの根を乾燥させたもの・利尿薬など)などが記載されている。


[トップページへ]


[もくじ]へ戻る

All Rights Reserved. Copyright Kochi-city.