土佐史研究家 広谷喜十郎

212新興商人の台頭 -高知市広報「あかるいまち」2001年9月号より-
  寛文3年(1663)の家老野中兼山の失脚に伴い、一時的に領主的統制が緩和されたので、長岡郡才谷村出身の才谷屋の始祖となる八兵衛は寛文六年に城下の本丁筋の借屋で質屋を開業し、延宝五年(1677)には酒造業にも手を出している。さらに、元禄7年(1694)に本丁筋二丁目で諸品売買を行い、同14年には2代目が3丁目で持ち家を買い求め、その後は驚異的な発展ぶりを示すことになる。八兵衛の妻佐耶(さや)が死んだときの『才谷屋日記』によると、彼女は八十余歳になるまで、毎日糸を紡ぎ、針仕事、機織りなどにいそしんでいた働き者で倹約家であったと紹介されている。八兵衛と共に長年の苦労をした生活の中で、いつの間にか苦労することが体いっぱいに染み付いてしまったので、安定した生活ができるようになっても、何かしていないと寂しいという習慣が身に付いてしまったと思われる。
● 喫茶「さいたにや」の店先に掲げられている掲示板には豪商「才谷屋」のことが詳しく記されている(上町三丁目)
喫茶「さいたにや」の

  才谷屋が台頭してきたころは、城下町と近郊農村との交流が促進され、経済的に変化を与えることになった。例えば、『才谷屋日記』で才谷屋の奉公人の出身地の傾向を見てみると、奉公人25人の中で、城下町出身者が三人しかいない。遠くは東の安芸郡伊尾木村から西の高岡郡久礼浦に及ぶ広い範囲内から奉公人を集めている。彼らの多くはやがて出身地に帰り、店を構えているので、商品流通の拡大を促すことになるのである。

  それに、初期特権商人には見られないユニークな商人たちも数多く出現することが目立つようになる。

  藩政中期、紺屋町の土種屋(つちたねや)儀右衛門は、このころ流行していた前句まえく付けを好んで作っていたが、『紺屋町聞出文盲(ききだしもんもう)』によると「千代をねぢたる古松の葛(かずら)と云(いう)境(堺)町の大年寄の前句」に「我影は鬼もうつしの竹の内」という型破りの句を作っているし、「遙(はるか)に見る見ると云前句」に対しては「稲妻や日本二つはさみわけ」、「朝霧や比叡を立切る腰障子」、「いなずまや山なしわりに海の太刀」などというスケールの大きい句を作っている。この土種屋もまた安芸郡和食村の農家出身であったし、紺屋町では紙子(かみこ)製造が盛んになっていることにも留意しなければならない。

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