土佐史研究家 広谷喜十郎

210花台(はなだい)の登場 -高知市広報「あかるいまち」2001年7月号より-
 高知城下の新市町に住み、富裕な酒造業者であった根来ねごろ屋や又三郎は、『萬(よろず)日記』を書き残しているが、家老野中兼山失脚直後の寛文3年(1663)の一部分と、寛文4年7月から翌年12月に至るものが残存している。
●潮江天満宮の花台図「土佐年中行事図絵」(高知県立図書館蔵)
土佐年中行事図絵

 この日記には、わが家のことや交際のある商人の生活実態にまで触れているし、それに、エビス講や七カ所詣(まい)り、浦戸湾での船遊び、相撲見物などの年中行事の生々しいニュースも克明に描写されており、兼山失脚直後の活気にあふれた城下町の動向を伝えている貴重な商業史料になっている。それに、彗星の出現が人々に大きな動揺を与えている興味をそそられる記事などが数多く収録されている。

 なお、彼は儒者黒岩慈庵(じあん)について学び、寛文12年に郷士となり、桂井素庵を称していたが、宝永3年(1706)に55歳で死去され、墓は高知市東秦泉寺の真宗寺山にある。

 寛文4年の日記に「仁尾久太夫(におきゅうだゆう)ひつや太郎右衛門二人よりかさほこ出也(いずるなり)、8月16日に早々朝より町へ出、朝倉へ行申也(いきもうすなり)」とあるように、桂井素庵は友達と一緒に朝倉神社の祭礼に出された笠鉾(かさほこ)行列をわざわざ見物に行っている記事がある。この笠鉾の印象が強烈であったとみえ、日記に図示して紹介されているほどである。これについて、高木啓夫氏は『高知県百科事典』の「花台」の条で「万治元年(1658)櫃屋道清(ひつやどうせい)と仁尾久太夫が商用で長崎に赴き見聞きしたものを寛文4年に朝倉神社(高知市)に出した笠鉾に始まるとする説が一般的である」と述べている。

 野中兼山執政期において、御用商人の櫃屋や仁尾久太夫らは国産問屋に指定され、藩米の大坂方面への移出や長崎貿易などに関係していて、藩営的な商業の代行者として活躍し、大きな財力を得ていた。
櫃屋らは、その財力を生かして長崎で見聞きした笠鉾を、高知城下の祭礼のためにつくらせたものである。

 やがて、高知城下の祭礼が盛んになっていくと、山車(だし)の台上に人形や歌舞伎の場面を飾りつけた花台と呼ばれる豪華なものになっていくのであるが、中でも天明年間(1787〜88)に八百屋町の武市甚七(じんしち)作の久米仙人の人形を飾ったものが有名である。

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