土佐史研究家 広谷喜十郎

209酒甫手(さかぼて)の誕生 -高知市広報「あかるいまち」2001年6月号より-
●酒屋の軒下にある杉玉
 野中兼山の執政期に入ると、領主経済の拡大政策が一段と進み、その拠点となる城下町にも大きな影響を与えることになった。もと内町といわれ下級武士が多く住んでいた上町方面で慶安二年(1649)に町割(まちわり)が行われて北奉公人町、南奉公人町、通町が誕生している。下町(しもまち)方面でも同時期にいくつかの町の再編成が行われているし、例えば万治(まんじ)2年(1659)には、浦戸町にあった魚棚(うおのたな)を弘岡町に移して、ここに八百屋町ができている。これは、町の人口集中に伴い、野菜などの需要が増加し、「振(ふり)売り」的な商売から専門的な常設店屋(みせや)を設けても商売ができるようになったことを意味する。

 他方では、このような城下町の動向を踏まえて、酒造業者に対する統制が厳しくなってきており、慶安元年(1648)に、藩当局は城下町101軒、安芸郡15軒、香美郡12軒、長岡郡3軒、吾川郡1軒、高岡郡21軒、幡多郡28軒に統制することになった。この定数が、その後の酒造株の基準となっている。この酒造株のことを「酒甫手」といい、藩庁から酒造業者に対して座株(ざかぶ)である、甫手(ほて)を交付されていたが、官許酒屋(かんきょさかや)の軒下には杉の枝葉を丸く仕立てた提灯の形のような杉玉(すぎだま)をつるしていた。この杉玉は酒林(さかばやし)とも呼ばれ、本来は奈良県の酒の神を祭る三輪大明神にある杉の葉でかたちどったもので、今年も良い新酒ができたしるしとしたものであるという。それに、野中兼山は寛永20年(1643)に公布した法令書のなかで「酒買(さけかい)たべ申間敷候(もうすまじくそうろう)、(つけ)たり、朝寝仕間敷候(あさねつかまつるまじくそうろう)」と、農民が酒を飲むことを厳しく禁止して、違反者には銀子三匁を徴収するとしている。これを裏付けるように兼山の「赤面(あかづら)三匁、千鳥足十匁、なま酔五匁」という俚語(りご)が伝承されている。しかし、兼山がいくら厳しく飲酒を禁止しても、庶民は密造酒を造り法の網の目をくぐって隠密行動をしているさまを、数多くの史料が物語っている。

 なお、日本酒が濁り酒から清酒になったのは、中世末に奈良の僧侶たちが火入れ法という低温殺菌法を発明し、さらに寛文時代に入ると江戸幕府の寒造(かんづくり)酒の奨励もあったためで、これにより清酒づくりが可能になった。

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