土佐史研究家 広谷喜十郎

208エビス講(こう)の成立 -高知市広報「あかるいまち」2001年5月号より-
 高知城下町の形成過程を考える場合に、もう一つ気になる史料がある。それは『南路志』の蓮池町(まち)の条に「本丁、弘岡町、朝倉町、新市町、材木町、蓮池町、山田町、以上是を七蛭子(えびす)と云いう」との記述があって、エビス神を祀るエビス堂があるというのである。エビス神は商売繁栄を祈願して祀る神であって、各町の中心部辺りによく建立されているので、町立てのしくみを考える場合に欠かすことができない。京町にもエビス堂があるものの、これは特別な町であったので区別していたと記述されている。なお、本丁筋にエビス神を祀る佐田神社(さだじんじゃ)は、二代藩主忠義の父山内康豊(やすとよ)が幡多郡中村を知行していた折、同郡清水浦の漁民が海中より神像を引き上げたものといわれ、その後、本丁筋二丁目に移し祀ったものと伝えられている。
●エビス神を祀る佐田神社(上町2丁目)


 寛永二年(1625)、城下町建設当初には赤岡町、佐賀町、樽屋町の3カ所に分かれていた場所を整備し、藩主自身が材木町を成立させて林産物の専売特権を与えている。同七年には、藩庁が朝倉町納屋堀に対して城下町に集中される海産物などの専売特権を付与しているのが注目される。

 さらに、この時期に城下町周辺の比島や知寄方面で山崎弥右衛門が弥右衛門新田、金田源右衛門が金田新田、入江甚太夫が入江新田などを開発している。そして、寛永2年に下知村の外堤(そとづつみ)を築造し、堤内の耕作地を藩の御手先(おてさき)農民に耕作させ、その人たちに長屋を貸与して居住させたので農人町ができたという。近くにある、もと御小人(おこびと)潮田といわれた場所に、寛永8年に吾川郡芳原村(春野町)住人島崎籐右衛門(とうえもん)が来住し、同13年に町を設けて北新町、中新町、南新町、鉄砲町、田渕町という五箇条の町ができたので、それを総称して新町と名付けている。

 このように城下町の下町(しもまち)方面の町が整備されるに伴い各地にエビス堂が設置され、商人たちはエビス講を組織して祭日を盛り上げるようになっている。新市町(しんいちまち)に在住していた富裕な酒造業者の根来屋・桂井素庵(かつらいそあん)の日記にはエビス講の記述がみられる。
 

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