土佐史研究家 広谷喜十郎

204 関ヶ原合戦四百年 -高知市広報「あかるいまち」2000年12月号より-
 本年は「関ヶ原合戦四百年」である。ことしの春、伊吹山へ行く機会に合戦の戦跡を訪ね、石田三成本陣跡のある笹尾山に足を伸ばしてみた。 また、夏には金物の神として知られている南宮なんぐう大社にも行ってみた。

 この神社近くの山ふもとに、長宗我部盛親(もりちか)は1,600人を率いて東軍の背後を突くべく、長束直家(ながつかなおいえ)らとともに布陣した。それに対し、東軍側の後陣の守りとして山内一豊が2,000人を率いて池田輝政(てるまさ)らとともに中山道の街道沿いを固め、長宗我部軍と対峙していた。 両軍は街道筋を挟んで比較的近くでにらみ合っていたことになる。

 慶長5年(1600)9月15日、徳川家康の東軍7万4千人と石田三成の西軍8万4千人という天下分け目の激烈な大合戦が、岐阜県の関ヶ原の地で行われた。結果的に西軍に属していた小早川秀秋軍(1万6千人)が東軍に寝返ったことにより、西軍が大敗したのである。
●一領具足供養の碑(浦戸)
一領具足供養の碑

 長宗我部軍は本陣から離れた場所にいたので、敗軍の事実が分かると、すぐさま東軍の追っ手を振り払いながら大和への道から大坂の天満を経て、土佐へ帰国することができた。

 盛親は、すぐに使者を井伊直政の下へ派遣したが、直政が即答を避けたので、盛親は少人数の家臣を連れて大坂に赴き、家康に頭を下げて謝罪した。
 ところが、その直前に盛親は長宗我部元親によって追放され、香美郡岩村に幽閉されていた兄の津野親忠(ちかただ)を殺害するという大きなミスを犯してしまっていたのである。

 そして、この事件が家康の家臣である藤堂高虎の知るところとなり、早速、家康へその事実が伝えられたところ「元親が子にさようの不義の者ありける」と怒り、盛親を追放処分にして遠州掛川城主山内一豊に土佐を与えることにしたのである。

 浦戸城の受け取りに井伊直政は、家臣鈴木平兵衛、松井武大夫(ぶだいゆう)らを11月19日に派遣したが、両名は長宗我部氏の旧家臣の抵抗を受けて、雪蹊寺の月峯(げっぽう)和尚の仲介により寺へ入ることができた。

 竹内惣左衛門らの一領具足たちは「せめて土佐半国だけでも盛親公に下され」と嘆願して籠城を続けたが、重臣たちの裏切りに遭い、273人が討ち取られ、その首は塩漬けにされて大坂の井伊直政の下へ12月晦日に送付された。これが浦戸一揆といわれるものである。

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