土佐史研究家 広谷喜十郎


202 大阪と土佐(四) -高知市広報「あかるいまち」2000年10月号より-
 大阪と土佐の結び付きの中で、大阪人に土佐を大きく印象付けた幾つかのことがある。

 『南路志』巻四十六によれば、天正19(1591)年正月、浦戸湾内に入り込んできた九尋(ひろ)もある児(こ)クジラを突き取りしたので、長宗我部元親がこれを見て豊臣秀吉に献上すべきだと命じ、すぐに運送船で大阪まで運び、人夫百人ほどで大阪城内へ入り込んだのである。
 さすがの秀吉も「鯨丸ながらの音物(いんもつ)は前代未聞」と大いに驚いたといわれる。それに「丸鯨を見る事珍しき事なれば、侍町人に至るまで町筋へ群集して、これを見物す」と『元親記』にあるように、大阪の人々をびっくりさせたのである。
大阪「よどやばし」横の土佐堀川標識
大阪「よどやばし」横の土佐堀川標識 辰巳屋の初代太郎右衛門(たろうえもん)は京町に住み、後に山田町を経て種崎町に移り、藩の保護の下に醤油の製造を独占して豪商になったといわれ、辰巳屋勘之丞(かんのじょう)は宝暦12年(1763)に城下町の大年寄(おおどしより)になっている。高知県女教員(じょきょういん)会編『千代の鑑(かがみ)』によると、勘之丞の妻常(つね)が大阪で大評判になったことを紹介している。

 あるとき、勘之丞が商用のために大阪へ行き、大阪商人から資金の融通を受けようとしたが、辰巳屋が高知城下でいくら有名であっても相手にされず資金繰りに失敗してしまい、大阪での商売が一切できずにすごすごと帰国せざるを得なかった。

 今度は、妻の常が大阪へ行き、長堀の石工(いしく)町で「二見ヶ浦」と名付けられた名石の手水鉢(ちょうずばち)を大金を出して買い求めた。そこで、数千人の人夫を雇い、この巨大な手水鉢を土佐堀川の下流にある船着場まで引き回していたところ、毎日見物人が数多く集まったので、大阪の町中に土佐の辰巳屋の名を高めることができた。
 なお、高知城下町まで運ばれてきた巨石は辰巳屋の門から入らないので、滑車を使って塀を越えさせ、やっと庭先へ置くことができたといわれている。

 そして、常は勘之丞に再び大阪へ行くことを勧めたので、行ってみたところ、辰巳屋の評判が上がっており、おかげで商売がうまくいき、家業がますます栄えたので、人々は常の才知に感心したそうである。

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