土佐史研究家 広谷喜十郎


198 円行寺の薬師堂 -高知市広報「あかるいまち」2000年6月号より-
 高知市の奥座敷とも言うべき円行寺集落を北に向かって行くと、山ふもとの中央部に位置する場所に日吉神社の鎮守の森が繁茂しており目に付く。
 この地には、もと天台宗の円行寺という大きな寺院があった。『南路志(なんろし)』に「薬師堂本尊行基作秘仏堂三間茅屋(どうさんげんかや)」「毘沙門堂弐間茅屋(どうにげんかや)本尊行基作」とあり、奈良時代に行基が開基したと伝えられる由緒のある寺院であった。

薬師如来坐像が安置されている円行寺日吉神社境内の薬師堂
円行寺日吉神社境内の薬師堂 それに、『土左国古文叢(とさのくにこぶんそう)』(第六巻)所収の種崎村頂本寺(ちょうほんじ)の鰐口の銘文に「土州円行寺応永十四季丁亥(ちょうい)10月4日」とあって、室町時代の応永14年(1407年)の金石文(きんせきぶん)により寺の存在が確認できる。
 また、『南路志』の「円行寺跡」の条には、東坊(ひがしぼう)、行泉坊(ぎょうせんぼう)、西林坊(さいりんぼう)、岩本坊(いわもとぼう)など12の僧坊が認められ、戦国時代に大豪族であった本山梅慶(ばいけい)(茂宗(しげむね))が家運繁栄を祈願して田畑を寺院に寄付しており、『土佐物語』に「七、八町に作り並べたる寺堂・廻廊・鐘楼・経蔵(きょうぐら)・二王門・工人妙(こうじんたえ)を尽くし丹青を飾りし」と表現しているように七堂(しちどう)伽藍を整えた大掛かりな寺院であったのである。

 ところが、本山梅慶の身辺に怪異現象が起きたので、永禄元年(1558年)6月11日に円行寺で僧侶を集めて大般若経を読み上げていたところ「怪鼡忽(かいそたちまち)来りて壇上の燈油に己が尾を濡し、燈火を点して、天井に登りぬ、住持此(この)怪異を見て毀滅(かいめつ)の時節到来せるなりとて、徒衆の撲滅を制止せられし故、仏閣僧坊日記文等悉く灰燼と成ぬ」(『皆山集』)とあって寺院は全焼してしまった。この不吉な怪異話が本山氏の衰退につながり、永禄5年(1562年)に長宗我部氏との戦いで朝倉城が落城するに及んで、長岡郡本山の地に退去していくのであった。

 円行寺の本堂が焼失した折、「本尊薬師如来を同宿に負はせ、寺の方を二目とも見ず、朝倉へぞ立越えける」(『土佐物語』)とあるように、本尊の薬師如来だけは焼失を免れて、いま日吉神社の境内にある薬師堂に安置されている。
 この仏像については『土陽渕岳誌(どようえんがくし)』には「本尊薬師如来ノ指ニ焼痕アリ火事ノ時ヤケカカリタルヲ取出シタル」とある。
 なお、薬師如来坐像は県の有形文化財となっている。

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