土佐史研究家 広谷喜十郎

197 開成館商法 -高知市広報「あかるいまち」2000年5月号より-
 土佐藩が行った天保改革では、質素倹約令を布告するとともに抑商政策を実施して商業資本からの圧迫を排除しようとしたが、この改革はおこぜ組の獄などの政争が絡み、ほとんど成果を挙げることなく挫折した。

 そこで、藩主山内容堂によって登用された吉田東洋は新おこぜ組を率いて、安政5年(1858年)に強力な藩政改革に乗り出した。この年には銀1,300貫余が不足していたので、紙、椎茸、樟脳(しょうのう)などの国産品の統制強化を行い、商品生産を奨励して移出税による収入増加を図った。
 この重商主義政策は、着々と成果を挙げ、文久元年度(1861年度)には2,000貫余の黒字となっている。また、東洋は開国に対応して長崎貿易を考え、安政6年(1859年)に岩崎弥太郎らを長崎へ派遣したり、国産品の見本を送ったりしている。
東九反田公園内にある開成館跡の碑(九反田)
開成館跡の碑吉田東洋が土佐勤王党の志士によって暗殺された後、その遺策を継承した後藤象二郎は慶応2年(1866年)に九反田に開成館を設立し、洋式汽船の購入に伴う蒸気機関学や航海学などの教育を行うとともに国産品を統制する機関などを置いて西洋知識を導入するなど、殖産興業政策を展開し積極的に貿易を行って富国強兵を図ろうとした。

 平尾道雄著『維新経済史研究』によると、慶応2年8月から翌年7月までの年間経費は42万6,851両であったが、その中で軍艦商船の購入費31万7,900両余、銃砲弾薬費4万3,222両余とあるように、軍艦や武器の購入が主たる目的であった。
 それに対して、国産品の中で樟脳、和紙、カツオ節、鯨油(げいゆ)などが長崎に移出されているありさまを史料に散見できる。
 中でも樟脳が最も重要な産物であったことは、武器購入の代金は樟脳を売却してそれに充てるという記録が数多く見られるので理解できる。

 なお、開成館全体として長崎や大阪などへ移出された国産品は20余品目で、年額84万両に達することもあったという。
 開成館は土佐の近代化への胎動のシンボル的存在であり、このような経済力の支えがあったからこそ、土佐藩は政治的には大政奉還を推し進めるなど大きな貢献ができたとも言えるのである。

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