土佐史研究家 広谷喜十郎

195 車瀬(くるませ)の水車(すいしゃ) -高知市広報「あかるいまち」2000年3月号より-
 江戸時代中期になると、築地片町(つきじかたまち)、新要法寺町、菜園場町などの新町が城下町のなかでいくつか成立して、自力で町づくりをおこない貢租を負担するようになっているし、上方の先進的技術の導入による多種多様な手工業の展開をみせ、経済的に活気の様相を呈している。
車瀬公園内にある水車のモニュメント(上町四丁目)
車瀬公園内にある水車のモニュメント 岡本真古(まふる)著『事物終始(じぶつしゅうし)』の水車(すいしゃ)の条によると、元禄12年(1699年)に堺町商人の桔梗屋(ききょうや)新右衛門が上町にある北奉公人(ほうこうにん)町の長泉寺境内の水路に水車を設けて、綿実(わたみ)をもって油を絞ったので、これにちなんで車瀬(くるませ)と名付けられ、その近くに架けられた橋を車瀬橋と呼んでいる。なお、綿実(わたみ)油の製造が始まったのは、着物の原料となる綿花生産が、それだけ盛んになったことを意味し、城下町の近郊農村辺りで商品的作物として栽培されていたのであろう。
 その後、いつの間にか綿実油の製造がやまっていたが、寛保元年(1741年)になって、新市町の山田屋平左衛門、坂田屋の名代善七(なだいぜんしち)、蓮池町の廉太屋加右衛門(かどたやかえもん)、種崎町の加茂屋九右衛門(かもやきゅうえもん)、山田町の兼三郎の5人が綿実油の製造をこの地で再興させている。それもすぐにやまり、宝暦10年(1760年)には北奉公人町の鞠屋利作(まりやりさく)、通町の鞠屋与六(まりやよろく)が綿実問屋となり、「同寺の境内へ川水(かわみず)せき入れ、車をかけ油を絞り、米をつく支度(したく)」をはじめた。今度はうまくいったとみえ、「翌11年辛巳(しんみ)正月成就して、其業にかかる見物群集し、菓子うり等多し」とあるように、見物人がたくさん押しかけてくるくらい大いに繁昌していたようである。
 さらに、寛政年間(1789年〜1801年)から近くで唐紙(からかみ)用の幅広紙も製造されたので、この紙は「車瀬唐紙」と呼ばれ珍重されるようになっている。また、文政3年(1820年)には、南奉公人町大和屋鉄作が、上方方面の技術を導入して「縮緬(ちりめん)紙とて紅にて種々に染め、女髪(おんなかみ)のかざりにする」というものを製造している。
 車瀬橋の北詰が坂本龍馬と親しい池内蔵太(いけくらた)の屋敷跡であり、すぐ近くに望月亀弥太や広井磐之助(いわのすけ)らの屋敷があったし、龍馬は、若一王子宮前の射撃場へよく出かけて行き、鉄砲の試射をしていたという。とすると、車瀬橋から見た水車が動くありさまは、龍馬にとっては忘れがたい風景であったに違いない。

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