こうちミュージアムネットワーク

11. 渡辺一寸(かつちか)(松丞(まつのじょう))の墓 -高知市広報「あかるいまち」2012年12月号より-

 宇津野の奥、高知自動車道の橋脚(きょうきゃく)をくぐった場所に、名切川一の谷渓谷遊歩道の出発点がある。そこから、轟(とどろき)神社(三園町)の輿(こし)洗いの神事が行われる轟の滝の横を過ぎ、案内板の後ろを通って山の斜面を登った先に、訪れる人もなくひっそりと立つ墓標がある。幕末に生きた足軽・渡辺一寸(松丞)夫婦の墓である。松丞は知る人ぞ知る、土佐藩のスパイである。

 寺石正路『土佐偉人伝』続編に、「渡辺松之丞」の項がある。松丞は久万村に生まれ、後に分家し秦泉寺村に住んだ。手裏剣の技に優れた松丞は山内容堂に気に入られ、駕籠(かご)脇の護衛を務めたという。また、三間(さんけん)(約五・五メートル)離れた場所につるした一文銭の穴を手裏剣で撃つことができた、一升飲んでも乱れないほどの酒豪でヘビやカエルを食した、自身の名前が一寸であるから子どもを一寸の半分で五分(ゆきお)と命名した、といった風変わりな逸話も記されている。

 一見伝説めいた人物だが、平成二一年に県が購入した『土佐藩京都藩邸史料』の中に、松丞が大和十津川および長州下関へ潜入した時の報告書が見つかっている。松丞は「自分は土佐を脱走してきた」と偽り、行く先々で巧みな話術を用いて相手を信用させて情報を聞き出した。また、他人宛ての手紙を盗み読み、危険を察知すれば素早く逃げ出すなど、密偵として優れた才能を発揮している。

 松丞が持ち帰った情報は、外部から容易に入り込めない土地の様子や、そこにかくまわれている土佐からの脱走者の様子で、藩にとっては貴重な情報であった。土佐藩に限らず諸藩や幕府も常に内外の情報を必要とし、こうしたもある。

 山本泰三の『土佐の墓一』には、松丞は明治二一(一八八八)年に五四歳で没したとある。数え年として逆算すると天保六(一八三五)年生まれ、坂本龍馬と同い年ということになる。龍馬と同じ時代を、密偵という陰の存在として生きた松丞。幕末という時代は、彼の目にどのように映ったのだろうか。

 なお、松丞報告書は来年一月一一日まで高知県立坂本龍馬記念館で開催している「”土佐藩探索御用役”がみた幕末」展において展示しているので、ぜひご覧いただきたい。

[こうちミュージアムネットワーク 高知県立坂本龍馬記念館 学芸員 亀尾美香]

「渡辺一寸夫婦之墓」と記された墓標(宇津野)

●「渡辺一寸夫婦之墓」と
記された墓標(宇津野)

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