こうちミュージアムネットワーク

9. 歴史の山・筆山 -高知市広報「あかるいまち」2012年10月号より-

 土佐藩五代藩主山内豊房は、ひたすら和歌を好んだ雅趣の人であった。同好の人、仙台藩主伊達吉村と頻繁に歌を詠み交わし、自ら数冊の歌集も編んだ。また、文人趣味に基づいて、優雅な地名を土佐に残している。潮江川の水面を鏡に例えて「鏡川」、そこに映り込む潮江山の陰影を筆に例えて「筆山」と名付けたとも伝えられる。

 春は花見、秋は紅葉狩りでにぎわう風雅の山・筆山は、かつては山麓にある山内家の菩提寺(ぼだいじ)にちなみ真如寺山(しんにょじやま)とも呼ばれた祈りの山でもあった。その筆山の北面には、百基を超える墓石が林立する山内家の墓所がある。

 山内家の墓所は全国に残る大名家墓所の中でも広大なことで知られており、さらにその周りには土佐藩士たちの墓所が連なっている。各墓所は個人所有地であり、山中を縦貫する遊歩道から傍観するだけであるが、実はそこには土佐藩の歴史が凝縮しているのである。

 「無」の旗を掲げて一豊とともに関東に出陣した野々村迅政(としまさ)、野中兼山亡き後藩政で重きをなした孕石(はらみいし)家、幕府軍学者北條氏の推挙で召し抱えられた槍(やり)の名手宍戸(ししど)政長、徳川家康の養女として二代忠義に嫁いだ阿姫(くまひめ)付家老の小笠原一族など、土佐藩二百七十年の中で起きたさまざまな事件や歴史の主役たちがそこには眠っている。

 さらに注意深く眺めれば、山内家の墓所を取り囲むかのように家老たちの墓所が隣接し、その周辺には馬廻(うままわり)格の墓所が同心円状に広がっているのが分かる。そこには、城下町の屋敷配置と重なる、土佐藩武家社会の秩序が見事に再現されている。まさに、武家は生きても死しても、近世秩序の中にあり続けたのである。

 土佐に生まれ、死んでいった人々の全容、つまり土佐の歴史を知るためには、古文書や記録等の文字資料だけではなく、墓所調査も進めなくてはならないとつくづく感じる。墓域の地形や石垣をはじめ、墓所を構成するさまざまな石造物、あるいは墓石の大きさや形式、材質や方向からも、秘められた歴史意識を探ることができる。そういった意味で、筆山は一つの「フィールド・ミュージアム」ともいえるのではないか。

 筆山は、風雅の山、祈りの山、そして歴史の山でもあるのである。

[こうちミュージアムネットワーク 土佐山内家宝物資料館 館長 渡部 淳]

「筆山」(高知市民図書館蔵 寺田正写真文庫より)

●「筆山」(高知市民図書館蔵
  寺田正写真文庫より)

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