こうちミュージアムネットワーク

6. 水が通る町 -高知市広報「あかるいまち」2012年7月号より-

 上町二丁目にある「龍馬の生まれたまち記念館」の前には、幅約一・七メートル、長さ約九一〇メートルほどの水路が東西に流れている。通称「升形川」と呼ばれている。毎日何げなく横目に見ながら通っているが、その歴史は意外に古く、江戸時代初期に造られたものである。龍馬の生きた時代にももちろんあり、この流れを同じように眺めていたのかと思うと感慨深い。

 この上町地区の町割り(都市計画)は、慶安二(一六四九)年から野中兼山により行われ、東西の筋に沿って町が整備された。升形から思案橋(上町五丁目)に至る本丁筋を中心に、北側は武家に仕える奉公人が多く住んだ北奉公人町、南側に水通町(すいどおちょう)、真っすぐな一筋の通りに整備された通町(とおりちょう)、北と同様に奉公人が多くいた南奉公人町があった。そして宝永元(一七〇四)年、町民が藩からの許可を得て、自ら石垣を築き開発した築屋敷(つきやしき)が鏡川沿いに造成された。

 当館の辺りは水路が流れていることにちなんで「水通町」と呼ばれ、大工、左官、刀鍛冶、研師(とぎし)などさまざまな職人が居住し発展した。饅頭(まんじゅう)屋長次郎こと、近藤長次郎もこの町で誕生している。

 当初、水路は紺屋が染め物をさらすために共同で造られたものであった。その後、鏡川上流の杓田村(ひしゃくだむら)(現在の旭地区)に郭中堰(かちゅうぜき)が設けられ、そこから取水した水を水路に流し、生活用水として使用されるようになった。この水は、外堀の上に大きな樋(とい)を渡して流され、郭中の用水としても使用されていた。

 土佐藩法令集『憲章簿(けんしょうぼ)』には寛政六(一七九四)年に藩庁が「道具や野菜類に至るまで洗ってはいけない、ごみなどどんな物でも流してはいけない、漬け置きをしてはいけない」とした立て札を出した記録が残っている。当初は、取水口に見張り番を置いて汚水行為を監視し、犯した者は厳重に処罰された。水路をきれいに保つ努力をしていたことがうかがえる。

 現在、上町四・五丁目の水路に戸板を渡して火曜市が開かれ、水路のある町として江戸時代と変わらず今も親しまれている。先人が大切に残してきたコイがのんびり泳ぐこの風景を、われわれも後世まで守っていきたい。

[こうちミュージアムネットワーク 龍馬の生まれたまち記念館学芸員 上野 麻衣]

上町地区を東西に流れる通称升形川には、魚などを狙って水鳥もやって来る。

●上町地区を東西に流れる通称升形川
には、魚などを狙って水鳥もやって来る。

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