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高知市春野郷土資料館外観

はるの昔ばなし

畳表の恩人

 

 戸原〔とばら〕というところは昔は本当に寒村〔かんそん〕であったようです。

 「私たちの記憶では、前はほとんど草葺きの家ばかりじゃった。」

とお年寄りは言っています。

 民俗学研究家の徳弘勝さんは「トバラは苫原(トマハラ)から来たものでしょう。」と言っていますが、昔のようすがよくわかるように思います。

 明治の頃、ここでよく使われたことばに『春一番』というのがあります。このことばは今は気象の解説に使われていますが、戸原の春一番というのは少しちがいます。

 「旦那、春一番が吹きましたぜよ。」

ということばに、なかなかいい言外の意味が含まれているのです。――春一番が吹いたから明日から大漁は請合いです。だから少しお金を貸して下さい――と、こういうわけです。不漁の冬場をやっと漕ぎ抜けた漁師の妻が、質草も持たずに駆けこんでお金の融通を頼む時に使うのです。

 さてこの寒村に、明治の中頃でしたが一人の中年の男が移って来ました。別役寿之助さんといいます。高知の紺屋町で荒物卸商〔おろししょう〕を営んでいましたが、根がボンボン育ちであったので商売に身が入らず、次第に左前になって行きました。何しろ、若い時には毎晩女中に両側からうちわであおらせながら食事するという人でありました。

 この人、戸原へ来てからは心機一転、人生の出直しとばかり、言うことすることがすっかり変ってきました。先ず気が付いたのが余りにも貧しい人びとの暮しです。寿之助さんは我が家の再興のことはすっかり忘れました。戸原全体を救うことに燃えたのです。地場産業!これです。商売で知っている畳表に目を着けました。

 藺草の栽培、表打ちの技術、販路の開拓、来る日も来る日もこのことで一杯でした。利益は全部生産者へ戻して表打ちの興隆をはかりました。当時機械は手差し足踏みの物でしたが、寿之助さんの指導でだんだん仕事をする人がふえました。大正、昭和と進むにつれて作業場を建てる人も多くなり、電動式の機械の音が盛に聞こえるようになりました。

 こうして戸原は県下屈指の表産地となり、今日の部落となることが出来ました。昔のことを知る人は寿之助さんを救世主のように崇めていますが、寿之助さんは戸原の大島というところで、雑草に埋もれて眠っておられます

畳表の恩人イラスト


紺屋町…こんやまち。高知城下町のひとつです。城下町建設当時、何軒かの紺屋〔こうや〕があったことに由来します。

藺草…いぐさ。湿地や浅い水中に生える植物で、畳表はこの茎からつくられます。

 

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