はるの昔ばなし

白蛇の血

 

白蛇の血イラスト

 四百年余り前のことです。弘岡中の今の南部の地に、松梛盛衛門〔まつなぎせいえもん〕という若者がいました。

 父は松梛盛宗といい、初め安芸〔あき〕の豪族〔ごうぞく〕安芸国虎〔あきくにとら〕に仕えていましたが、国虎の死後吉良〔きら〕氏を頼って弘岡に来て住んだのです。

 吉良城主吉良宣直〔のぶなお〕は盛宗の武勇を見込んで重臣の列に加えました。天文九年の春、宣直は仁淀川に鮎漁を催し、弘岡上の如来堂島で酒宴を開きました。そこを襲ったのが朝倉城主本山茂辰〔もとやましげとき〕の軍勢です。急を聞いて宣直〔のぶなお〕はすぐに城へ引き返そうとしましたが、行当付近で早くも茂辰の軍と衝突、行当から如来堂〔にょらいどう〕にかけての川原で激しい攻防戦が展開されました。激戦数刻、宣直は流れ矢を眉間〔みけん〕に受けたので自害、盛宗ら重臣達もことごとく戦死してしまいました。

 盛宗の一子盛衛門は、父の家来宮田甚内〔じんない〕、田島次郎らに守られて南部の地で成人しましたが、これまた父に劣らぬ剛勇〔ごうゆう〕の若者となりました。盛衛門はある晩、今の地国谷のあたりの白辻の曲がりというところで、旅人を悩ましていた大きな蛇を退治しました。蛇は世にも珍しい白蛇、それからというもの、毎日のようにその曲がりに赤い血の水が泉み出し、人びとは白蛇のたたりと言って大変おじ恐れました。

 盛衛門は再びその曲がりに行き、白蛇を斬った時の小つかを泉の血に供えてお祈りをし、自分も血の水を飲みました。また白蛇のうろこを持ち帰り、善徳寺に納めて丁寧〔ていねい〕に供養いたしました。それからは泉の血は出なくなったそうです。

 この剛勇と沈着な行ないによって、盛衛門は一層里人〔さとびと〕の尊敬するところとなりました。そして山内公が土佐の国守になると、盛衛門に苗字帯刀〔みゅうじたいとう〕を許し、庄屋職〔しょうやしょく〕と三・六人扶持〔ふち〕を与えられました。

 松梛盛衛門はこうして初代庄屋を名乗りましたが、今も南部の松梛瑞穂氏と松梛義弘氏の屋敷を人びとは『庄屋屋敷』と呼んでいます。


安芸国虎…あきくにとら。戦国時代に高知県安芸市周辺を中心に勢力を誇った国人です。永禄12(1569)年に長宗我部元親に攻められ、自害。

 

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