はるの昔ばなし

森山八幡宮の祭神

 

森山八幡宮の祭神イラスト

 八幡宮といえば、祭神はたいてい応神〔おうじん〕天皇でありますが、森山八幡宮は少しちがっています。この八幡様の祭神は、南朝の忠臣、日野資朝〔すけとも〕とその子朝保〔ともやす〕の二柱です。

 ここで日野資朝のことを少し記しておかねばなりませんが、それは今から七百年近く前のことになります。

 資朝は後醍醐天皇の正中年間、政権奪還を計〔はか〕って露見〔ろけん〕、捕えられて佐渡に流されました(正中の変)。佐渡の守護職〔ろけん〕本間山城入道〔ほんまやましろにゅうどう〕は、北条高時の命により資朝を殺すことになりました。

 京都にいた資朝の第二子阿新丸〔くまわかまる〕は、風のたよりにこの事を知り、父の死ぬ前に一目会いたいとはるばる佐渡にやって来ました。しかし守りが厳しいため父に近づくことが出来ません。そればかりか、資朝の子が来ていることが分かったため、山城入道は急ぎ一族の本間三郎に言い付けて、資朝を殺してしまいました。

 阿新丸は情けある僧の手引きで父の遺骨を貰〔もら〕い受け、これを兄朝保のところへ送り、自らはせめて仇に一太刀〔たち〕報いようと機会をうかがっておりました。ある大雨の夜、漸〔ようや〕く仇の館に潜入することが出来ました。本間三郎の寝所に忍びこんだ阿新丸は、枕をけって三郎を起こし、起き上がるところを一刺し刺し通し、急ぎ外に出ましたが、変事を知った家来共が大騒ぎ、あちらこちらと探している間に竹のしなう力を使って堀を越え、無事に敵地を脱出しました。海岸に逃れたところへ折りよく西へ行くという船が一艘――。こうして危ういところを逃れて京都へ帰り着きました。阿新丸はこの時十三歳でありました。

 資朝の長子朝保は、洛西葛野〔かどの〕に父の遺骨を葬り、廟〔びょう〕を建てましたが、北条方の目をはばかってこれを八幡宮と称しておりました。

 程なく後醍醐天皇は吉野の行宮で崩御〔ほうぎょ〕せられ、南朝の勢いは年を追うて弱まるばかり、後村上天皇崩御の後は、資朝の子や孫たちは身の置きどころにも困るようになりました。

 朝保の子勝朝は、八幡の璽〔しるし〕重器を背負い、海を渡り阿波を経て吾川郡森山村に着いたと社伝〔しゃでん〕に記されています。八幡の璽というのは資朝の魂代〔たましろ〕のことです。

 ここにおいて森山の領主徳弘安宗〔とくひろやすむね〕は、勝朝を迎え厚く待遇〔たいぐう〕していましたが、勝朝の滞在が或は面倒な問題を起こすことになるかも知れないと心配し、

 「私が一つの社殿を建てますから、貴殿〔きでん〕神璽〔しんじ〕をお祀りになって下さい。そして貴殿が神主としてそこでお住まいになれば文句を言う者はないでしょう。」

と言い、社殿を狩谷口(現在地)に建立いたしました。

 勝朝はこの社に資朝と父朝保を祀りましたが、これが正平二十四年といいますから凡そ六百年の昔のことになります。

 町の文化財に指定されている三体の神像のうち、資朝卿の座像は、高さ三十五センチの檜の一木造りです。直垂〔ひたたれ〕侍烏帽子〔さむらいえぼし〕を着用し、謹厳〔きんげん〕な態度で合掌〔がっしょう〕の姿をしています。ほかの二体は材質が松らしく、一方は口を開き一方は閉じて阿吽〔あうん〕の対となっています。これは多分はじめから資朝卿の左右に安置するために造られたものでありましょう。資朝の子孫に当る藤原貞光・照清の肖像ではないかといわれています。


北条高時…ほうじょうたかとき。鎌倉幕府の第14代執権です。その在任中には本文中にもある正中の変ほか、多くの騒動が全国的に起こりました。のちには後醍醐天皇らの討幕活動によって追い詰められ、正慶2/元弘3(1333)年に新田義貞軍が鎌倉に侵攻すると、一族らとともに菩提寺である東勝寺にて自刃しました。

行宮…あんぐう。天皇の一時的な宮殿として建設あるいは使用される施設のことです。

重器…じゅうき。宝物にしてる大切なもののことです。

神璽…しんじ。ここでは「八幡の璽」と表現される資朝の魂代のことを指すとみられます。

正平二十四年…当時の南朝と北朝はそれぞれ独自の年号を使用していました。「正平」は南朝方の年号で、西暦1346年を元年とします。正平24年は西暦1369年にあたり、北朝方の年号では応安2年となります。

直垂…ひたたれ。男性用の和服で、南北朝期には公家貴族の平服として着用されていました。

侍烏帽子…さむらいえぼし。和装のときにかぶる烏帽子の一種で、武家社会での正装です。

 

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