はるの昔ばなし

七人みさき

 

 今ではもう「七人〔しちにん〕みさきのたたり」などと言う人はいないでしょうが、今のお年寄りが子どもだった頃には、きのうまで元気であった人が急に寝ついたりすると、「七人みさきにおうたからだ」などとよく言ったものです。

 七人の怨霊〔おんりょう〕実際は八人になりますが‐悲惨〔ひさん〕な最期を遂げた吉良親実〔きらちかざね〕以下の人びとの怨霊がいつも空をさまよっており、それに行きおうた人は大病になるというわけで、人びとはこの目に見えない魔ものを大変恐れたものです。

 親実が長宗我部元親〔ちょうそかべもとちか〕の怒りを受けて、小高坂〔こだかさ〕で切腹したのは天正十六年十月四日のことです。腹真一文字にかき切り腸をつかみ出すところを、検使〔けんし〕の宿毛甚左衛門〔すくもじんざえもん〕が大刀を振りおろしたわけです。

 この夜は、親実は小高坂の下村某の家で碁〔ご〕を打っていたのですが、元親の使いという二人の者が現われ、「元親の命である。」と言って切腹を申しわたしました。親実は打ちかけの一局を収め、沐浴〔もくよく〕して体を清め、静かに半膳の食事をしたためました。そうして左右の者に言いました。

「自分は〔はた〕家<の姻戚である。主に過ちある時は諫〔いさ〕め正すのが自分の責任である。今、奸悪〔かんあく〕の者共が主に過〔あやま〕ちを犯させ、忠臣〔ちゅうしん〕を殺そうとしている。主家の衰運〔すいうん〕は火を見るよりも明らかである。」

と。やがて定めの座につき、腹をほふり、腸をつかみ出すところを甚左衛門が介錯〔かいしゃく〕したのです。時に親実は二十七歳であったといいます。

 元親の怒りはそれだけで収まりませんでした。続いて数日の間に、親実の旧臣〔きゅうしん〕であり親実にくみしていた永吉飛騨守〔ながよしひだのかみ〕ら七人がことごとく斬られてしまいました。これが世にいう七人みさきであります(親実を入れると八人になるが)。

 このことがあってから、あちこちでつぎつぎと怪異〔かいい〕が起こりました。小高坂の屋敷跡や、親実の墓のある木塚山(西分増井山)のあたりから、夜毎にケチビが現われるようになりました。小高坂では首のない武士が白馬に乗ってはしるのを見たというし、大入道が鉄棒を引っぱってはしるのを見たとも言います。その出会うた人、見たと言う人は、たちまちその日から大熱を発し、いたるところで大病人や変死の人が出て来ました。

 一方、元親に取り入って日夜ザン言を行った奸悪の人久武〔ひさたけ〕親信(元親の家老で佐川城主)の家にも変事が続きました。八人の子が次つぎに発狂して七人まで死んだし、親信の妻も悲嘆〔ひたん〕のあまり自害して果てました。正にこれ因果応報〔いんがおうほう〕というところでありましょう

 西分増井沖の岡にある吉良神社は吉良親実を祀った社です。

付記

 

 吉良親実が元親の怒りを受けたことについては、理由が幾つもある。

その一、家老久武親信のザン言

 親信はかねてから親実と反目しあっていたが、一日両者激突の事件が起こった。

 天正十五年のこと、元親は秀吉の命により、奈良大仏殿へ大木を献上するため、用材の伐り出しについて親信を仁淀川へ遣〔つか〕わしていた。その時親実も来合わせていたが、親信はあいさつもしなかった。親実が怒って矢を射かけるとその矢が親信の笠に当った。それ以来親信は大いに親実を憎み、二人の反目はつのっていった。もともと親実は城監職であり婿でもあったので年は若いが席次は上であった。

その二、長宗我部家後継ぎの問題

 天正十六年元親の後継ぎのことで岡豊城中で大評定が行われた(元親の嫡男信親〔のぶちか〕戸次川〔へつぎがわ〕で戦死。その後継ぎを誰に)。

 元親は四男盛親〔もりちか〕を立て、信親の娘をこれに娶〔めあ〕わせようと考えた。この提案に対して真っ先に賛成したのが親信である。この機に元親や盛親に取り入り、自分の勢いを張ろうとしたものである。

 これに対し親実は「家督相続〔かとくそうぞく〕は長幼〔ちょうよう〕の序を守るべきである」「叔父〔おじ〕〔おじ〕・姪〔めい〕の結婚は人倫〔じんりん〕に反する」ことを挙げてこの提案に反対した。元親は大いに不興〔ふきょう〕で「不敬至極〔ふけいしごく〕」と言い捨てて退席した。

 この不興に油を注いだのが親信のザン言であることは言うまでもない。

付記 二

 親実の切腹に続いて斬られたのは次の七人である。

  永吉飛騨守、宗安寺信西〔そうあんじしんぜい〕、勝賀野次郎兵衛〔しょうがのじろべえ〕、吉良彦太夫〔きらひこだゆう〕、城内大守坊〔しろうちたいしゅぼう〕、日和田与三衛門〔ひわだよざえもん〕、小島甚四郎〔おじまじんしろう〕 

七人みさきイラスト


おうた…土佐弁で「会った」の意味。

実際は八人になりますが…後述のとおり、吉良親実はこの「七人みさき」の怨霊には含まれていないので、親実を含めると8人になるということです。

天正十六年十月四日…この年については異説もあります。のちに記述のある親実の年齢についても同様です。

秦家の姻戚…「秦」は長宗我部氏の姓です。親実は、元親の弟親貞〔ちかさだ〕の子ですから、元親の甥にあたります。

ケチビ…火の玉。人の怨霊が化したものといわれます。ちなみに、『土佐お化け草紙』では「鬼火」に「けちび」とルビがふられています。

ザン言…讒言。相手をおとしいれるために、相手を悪く言ったり、ありもしないことをつくりあげたりして、目上の人に告げること。

因果応報というところでありましょう…この稿では、付記にもあるとおり、吉良親実が久武親信の讒言によって切腹に追い込まれたという見解をとっていることにより、こうした表現になったものとみられます。

戸次川で戦死…天正14(1587)年、豊臣秀吉の九州平定の過程でおこなわれた、島津勢と豊臣勢との合戦です。この合戦で父元親とともに豊臣勢として参加していた長宗我部信親は戦死しました。

 

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