土佐史研究家 広谷喜十郎

196 倉敷と土佐 -高知市広報「あかるいまち」2000年4月号より-
 一昨年の春に鹿児島県山川町にあるサツマイモ神社とも言うべき前田利右衛門を祀(まつ)っている徳光神社を訪ねたこともあって、昨年末はしまなみ海道の旅をしていくつかの芋地蔵を訪ねてきた。
 大三島の下見(あさみ)吉十郎という人物が、諸国巡礼の旅をしているうちに薩摩でサツマイモの存在を知り、種イモを持ち帰って、地元に栽培法を教え、瀬戸内海方面のたくさんの人の命を救ったので、それを感謝して各地に芋地蔵を建立したものである。

倉敷代官所跡の碑(岡山県倉敷市)
倉敷代官所跡の碑 旅の帰りに岡山県倉敷にある江戸時代の代官所跡(倉敷アイビースクエア内)を訪ねた。ここに明治初年に倉敷県知事として赴任してきた高知城下町出身の小原与一郎のことが前から気になっていたからである。
 『高知県人名事典』(高知新聞社)の小原与一郎の条をひもとくと、彼は上士の中で数少ない勤王家の一人で、藩の中枢にあって何かと活躍していたが、文久4年(1864年)1月に勤王志士と通謀したとの嫌疑が掛かり免職させられたという。
 そして、明治元年(1868年)に伊予の川之江が土佐藩領になった折に奉行になって赴任した。

 小原与一郎は初代の山田駿馬(しゅんま)の後を受けて二代目川之江奉行になったが、「明治元年高知藩来(きた)ッテ管領スルヤ、商業ヲ奨励シ、紙幣ヲ発行(略)商人ハ皆之ヲ貸リ、資金ノ融通ヲ得テ商況ニ旺盛ヲ極メタリ」(『川之江町郷土誌』)といわれるほどの善政を行ったので、彼が倉敷県知事に転出が決まった時には、領内から引き留め運動が起こったほどである。
 また歴代奉行の治政も大いに評価された。
 明治3年(1870年)12月には、廃藩置県が施行されるのを機に、高知県に編入することを領民が熱望したので、中央政府へ派遣された陳情団の代表たちは、血判入りの嘆願書を提出している。

 倉敷市立図書館へ行き、小原与一郎に関する文献を探したが、残念ながら見つけることができなかった。
 だが、『倉敷市史』(第十巻)によると、明治元年に土佐人の森田三左衛門が倉敷県属として赴任してきたが、わずか8カ月で急死したとの紹介があった。
 その中で、この一族に京都市長や衆議院議長になった森田茂や、山下奉文(ともゆき)がいると詳しく述べている。

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