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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「Mayor's Column 内和外順」のコーナーを再掲したものです。
内和外順高知市広報「あかるいまち」より
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大政奉還150年
高知市広報「あかるいまち」2017年3月号より
 「船中八策」を構想した、龍馬、長岡謙吉、象二郎に思いを馳せる岡崎市長
 今年は、坂本龍馬や後藤象二郎、山内容堂などが身命をなげうって成し遂げた「大政奉還」から150年の節目の年を迎えます。
 幕末の慶応元(1865)年からは、さらなる激動期に入り、特に新国家の建設に向けて、土佐藩出身の人々が目覚ましい活躍をみせています。
 慶応2年1月21日には、日本の大きな転換期につながる「薩長同盟」が龍馬の劇的な働きによって締結されました。しかし、直後の1月23日の深夜に、寺田屋で伏見奉行所に急襲され、龍馬たちは命からがら逃げ出します。世に名高い「寺田屋事件」です。
 慶応3年2月16日には、西郷隆盛が土佐へ来藩し、翌日、容堂と会見し、その後の四侯(しこう)会議につながっていきます。
 同年6月9日に長崎を出航した藩船「夕顔丸」の船上で、龍馬は長岡謙吉や象二郎たちと大政奉還を協議して「船中八策」を構想し、7月8日の夜に象二郎が容堂に建白を訴えています。
 そして、10月3日にこの船中八策を基にした建白書が幕府に出され、10月15日に大政奉還が決定されます。
 歴史は本当に奥深い面があり、象二郎と福岡孝弟(たかちか)が幕府の老中・板倉勝静(かつきよ)に提出した「建白書」の原本は、いまだに発見されておりません。
 大政奉還の建白の準備段階から実行、そして正式な決定に至るまで、土佐の有為な人々が、日本の新国家建設のために、命を懸けて取り組んだことに大きな誇りを感じます。
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