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このページは、高知市広報「あかるいまち」に掲載されている「歴史万華鏡」のコーナーを再掲したものです。
歴史万華鏡
執筆「こうちミュージアムネットワーク」の皆さん
第49回 浦戸湾の歴史
高知市広報「あかるいまち」2016年6月号より
図右に桂浜、左手前に種崎が描かれている。(『皆山集』五十九巻 高知県立図書館蔵)
●図右に桂浜、左手前に種崎が描かれている。(『皆山集』五十九巻 高知県立図書館蔵)
 浦戸湾は、日本の湾の中でも閉塞(へいそく)性の高い湾である。かつては、桂浜から種崎方向へ湾をふさぐ形で砂州ができ、水深も浅く、常に座礁の危険性があった。坂本龍馬も悪天候の時は浦戸湾へ入れず、須崎湾へ向かった記録がある。
 この砂州は、船の航行を妨げるだけでなく、さまざまな問題を引き起こす。坂本龍馬記念館には、明治二十一(一八八八)年十一月十五日から始まった自費工事の記録『浦戸港口自費堀切工事の景況』のコピーがある。この記録によると、自費で砂州の除去に参加した村は、潮江・下知・高須・種崎・浦戸・御畳瀬・長浜・仁井田などで、人数は二千八十七人にもなる。その他、慰労の酒だるや土砂を入れる空の俵の寄付、企業や知事などの寄付金、篤志による医師の待機、また板垣退助は力士十人を派遣した。
 介良村も遅れて参加しており、その理由は「田地へ麦の仕付をなすこと三回に及びしにすべて好結果を得ざるより初めて浦戸港閉塞し汐水の退却せざるがため、かかる患害を来したることを知り、同港口の堀割に一日も早く着手せん」ということだった。下知や潮江なども同様で、これらの地域では大雨のたびに洪水となっていたのである。
 砂州の除去は、六日目にほぼ終わったが、その日の夜中、にわかに風浪が激しくなり、再び土砂がたまってしまった。結局、この工事は県が取り組むことになる。それにしても、最初から県任せではなく、「まずは自費で大規模工事に取り組もう」という当時の人の気概に驚かされる。
 現在、河川からの土砂流出の減少や防波堤によって、砂州はできなくなっているものの、浦戸湾の閉塞性は依然として高い。こういう湾は汚染が始まると湾全体に広がりやすく、水質の浄化も難しい。昭和四十六(一九七一)年に大問題となった江ノ口川の汚染など、非常に危険な時期もあった。
 浦戸湾は地形の問題から常に災害や公害と隣り合わせであり、それらと戦ってきた先人たちの歴史がある。

こうちミュージアムネットワーク 高知県立坂本龍馬記念館 学芸員 三浦 夏樹
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